冒頭抜粋
あと二十年もしたら、これだけで酒の肴は十分になってしまうだろう、と唐津焼の猪口をテーブルに戻し、赤司は思った。
テーブルに載った隅切の胴は濃紺、見込みはほんのりと藍がかった乳白。隅切に乗っている胡瓜は五ミリほどの厚さに薄切りにされ、皮には糠の味がふんだんに含まれている。皮の弾力も見事で、噛みしめるちょうどいいタイミングでぷつりと切れる。中心部分の塩分は少なく、種を噛めばほんのりとした甘味すらあった。同じ皿に盛られている茄子も同様で、茄子はそのままの姿で供されていた。鮮やかな藍色の姿にかぶりつけば、じゅわっとした汁が口の中に満ち、更には唇の端まで溢れた。汁を吸い尽くさなければ次の咀嚼に移ることもできない。
(この組み合わせは本当に最高だな……)
糠、酒。米が基本となる和食。その味に先祖は慣らされ、今、自分の味覚が形成されている。日本に生まれて良かったと思う瞬間だった。
「お客様をお連れしました」
通路側の簾の向こうから、店員が声を掛けてきた。全席個室がこの居酒屋の売りだった。個室とはいえ、通路側は扉ではなく簾になっており、腰から下はそちらから丸見えとなっている。
「遅れてすまない」
緑間がコートを手に簾を押しやって入ってきた。土曜日だというのに、スーツを着ていた。
「今日はどうしたんだ」
緑間は医学部に進学しているため、二十三になった今でも大学に通っている。その大学関連で何か催し物があったのだろうと目星をつけた。
「同窓会だった」
(なるほど)
二十歳も過ぎれば同窓会での正装もおかしくない。中には普段着の者もいるかもしれないが。
「秀徳の、か?」
「ああ」
緑間は向かいの席に座る。この店の個室はほとんどが四人掛けだった。
「抜けてきたのか?」
十七時を過ぎたばかりだった。一般的に同窓会は昼間から夕方に掛けて開催されることが多い。秀徳の同窓会も同様だろう。
緑間は今まで一度も自分との将棋の勝負で勝てていない。彼はそのことに屈辱を感じていた。その自分が『時間ができたから勝負の続きをしないか』と申し出れば、よほど外せない用が無い限り、彼は応じてしまう。
「いや、十四時が始まりだったから抜けるというほどのことではない」
つまり二次会、三次会あたりを抜け出してきたということだった。
失礼します、と案内してきた店員とは別の店員がお絞りを緑間に渡す。
「お飲物の注文を承ります」
「ウーロン茶、アイスで」
同窓会ということならば、多少は飲んできたのだろう。うまいぞ、と日本酒の入った徳利を目線で示せば、勝負が終わったら、少しもらう、と返された。
「アイスウーロンと猪口一つ、でよろしかったですね」
空気の読める店員が確認してきた。
「はい」
「では、そちらのお皿をお下げします」
店員が手を伸ばしてきた。皿とは、刺身の盛り合わせ、鳥の唐揚げ、サラダの空き皿だった。漬物だけで腹が満たされるには、まだ二十年早かった。
空き皿を下げたスペースを台拭きで拭うと、赤司は隣の座席に置いていた将棋盤をテーブルに置いた。駒の入った巾着を開き、盤上に駒を並べていく。緑間も巾着から駒を取り、自分の側を並べ始めた。前回は勝負が途中で終わっていたので、その当時の盤面を作る。
「飲んでいるのか」
緑間のその低い声は、酔った状態で勝負するつもりなのか、と非難していた。
「猪口二杯程度だよ」
テーブル上にあるのは徳利は二本目だった。徳利の中身は万骨。日本酒であり、関東では出回っていない京都の隠れた名酒だった。
今日、一人この店に到着し、まずは注文しようと店員を呼んだ。すると店員が赤司にお絞りを渡しながら、店長からお客様へ特別にお勧めがございます、と言ってきた。
この店に赤司が来るのは五度目だった。一度目で、この店が良い酒と良い器を使った良い料理を出すことがわかり、その後、間を置かずに訪れていた。そのため、カウンターで店員に混じって働いているこの店の店長に顔を覚えられていたようだった。
『メニューには載っておりませんが、本日、万骨があるそうです』
『万骨が?』
食通酒通の注文内容は、同程度の目利きが見ればすぐに同志と判明する。店長はこれまでの赤司の注文で、赤司の食と酒のレベルを把握したようだった。
『如何致しますか?』
『頂こう』