(一)
おっと、と同僚が大げさに避けたのを、すまんと言い捨てて、緑間は先を急いだ。
走ることはできない。足を大きくスライドさせて、可能な限り早く歩いた。病院内は走行禁止。それは患者だけでなく医師であっても同じことだった。走った姿を患者に見られようなら、週一行われている部内会議で吊し上げに合う。看護師に見られようなら、後でどんな取引を持ち掛けられるか分からない。今年、後期研修医になって最下層は脱したが、まだまだ病院内ヒエラルキーの下層に属していた。
(どうか間に合ってくれ)
祈りながら、緑間は通話スペースまで急いだ。
『今日の蟹座のあなた。大事な人から連絡がくる可能性大です! 携帯電話やスマートフォンは気がつきやすい場所に置いておくといいですよ!』
今日は啓応大学病院の定例会議があった。それに出席するため、緑間は二週間ぶりに大学病院へやってきていた。
研修医たちがふだん詰めている医局には現在、緑間の自席はない。いったん出向となった者はほとんどの場合、数年は大学病院に戻らない。そのため研修医時代に使用していた席は、別の者がすでに利用していた。
緑間は私物を机の上に放置することを善しとしなかった。そういったものは、机の引き出しか鞄に入れておくのがマナーだ。しかし、三ヶ月前に購入したスマートフォンは、一週間前から目に見えて電池の消耗が早くなっていた。交換してもらおうにも、店が開いている時間に帰宅できる日が少なかった。帰れたとしても、家では家の仕事が溜まっており、それを片付けなくてはならないため、結局、電池交換に行くことが出来ずにいた。
(これは充電のためだ)
正当な理由で以って、緑間は人生で初めてプライベートのスマートフォンを机の上に置いたまま会議に出席した。日頃しないことをすると落ち着かないもので、緑間は会議が終わると、即座に医局へ戻った。出向者用の席に置かれたスマートフォンは、緑間が会議前に置いた場所にあり、メールの着信を知らせる緑色のランプを、静かに点滅させていた。
プライベートのスマートフォンに平日昼間にメールを送ってくるような相手は、ほぼ高尾和成だった。今度は何の用だ、とミニUSBケーブルを抜くついでにメールアプリを開いた。差出人の名前を見た瞬間、願望が幻影を見せているのではないかと、件名の日付と西暦を確認した。どうやら間違いなく本日のもので、差出人は一ヶ月音信不通となっていた赤司からだった。