第一章 冒頭抜粋
■送別会
送別会会場である居酒屋に差し入れのワインが届いた。木箱で届いたそれを、酔いの回った人々は喜び、我先にと中身を確認しに向かった。
緑間が視線で示した鷲屋も席を立っていた。来生の確認は間に合わなかったかもしれない。
自分たちの周辺は人気がなくなっていた。ただ二人、偶然にもぽっかりとできた空間に取り残されていた。
来生はこちらへ目を戻した。そして、よく知った顔で微笑んだ。いつもの、幼子に笑い掛けるかの笑顔だった。
「緑間先生はしっかりした方だから、俺みたいな馬鹿な真似はしませんものね」
自分の行いを見透かされた思いがした。彼にプライベートを話したことはない。特に赤司については、同僚には何も話したことはなかった。彼は今、自分が置かれている事情について、どうやっても知る由はなかった。それなのに、彼の言葉の裏にあるものが、緑間の虚を突いた。
(これが)
西の血を引く者は一筋縄では行かない、という関東出身者のぼやきを、緑間は思い出す。緑間を翻弄し続ける赤司も、母親は京都の出だった。そして来生もまた、話す言葉は標準語だが、言葉のアクセントは関西のものだった。
「島ではね」
彼はよく出身地を引き合いに出した。彼の出身は兵庫県の淡路島。その方言は四国と和歌山と関西のものが混じっているという。緑間はその土地に縁がなく、縁のある者も身近にいなかった。そのため、彼は熱心に違いを教えてくれたところで、そうなのですか、としかコメントできなかった。
関東に比べれば、関西の話し方は柔らかい。大阪出身者よりさらに来生の語り方は柔らかかった。彼は狙って笑わせようとはしなかったが、会話が楽しいものであろうとする努力を怠らなかった。そのため同僚は元より看護師たちからも、引継や指示出しが分かりやすいという評価を受けていた。
彼は他人を褒めるのもうまかった。小さい子どもが心から納得して、ほうと感心するような、その言葉を聞く者がふわりと包み込まれるような褒め方だった。
来生は大学院で二年間研究を行ってから根岸研究室に入局していた。そのため、緑間よりも年齢は二つ上だった。
「緑間さんて、背え高いですねぇ」
入局初日、医局で顔を合わせた彼は、緑間を見上げて目を細めた。言われ慣れている言葉だというのに、たったその一言と表情だけで、緑間は彼に好感を抱いた。それが彼の特有の魅力なのだろう。決して上から目線にならない話し方をした。相手に失礼にならないよう、丁寧に紡ぎ出される言葉。彼に好感を抱かない者は少なかった。去年、高学年の学部生の国家試験の勉強会を主催したのも彼だった。その勉強会は入局員スカウトという側面もあった。
「一年過ぎるまではわからんがな」
熨斗のついたブランデーを来生に渡しながら、医局長の根岸は言った。
「ただ、偉業なのは間違いない」
今年は新人六人が入局、その数は脳外科医局開設以来最高の人数だった。
第三章 冒頭抜粋
■再会
学部生の頃から、脳外科学会員で構成する楽団があることは耳にしていた。
「ピアノだけか」
入局面談の担当者だった根岸は、緑間の提出した書類を眺め、不満そうに言った。入局用として提出した書類には、名前や住所の他、扱える楽器について記入する欄があった。逡巡し、緑間はその欄にピアノとだけ記入した。もちろん、弦楽器・管楽器とも演奏することはできた。だが、人前で披露できるほどの腕前ではなかった。納得するレベルにない楽器をオーケストラで演奏するのは、緑間の主義に反していた。
「人数はいればいるほどいいんだ」
脳外科の医者のみで楽団員が組織されているのなら、演奏の最中すら呼び出される可能性もあるのだろう。
「うちはオケだけではなく、室内楽をやることもあるから、ピアノの出番もある。それに、――これは無理強いではないんだが、演奏会前に人手が必要な時がある」
「入団致します」
ためらいもなく返事をしたので、根岸は少し驚いた顔をした。
緑間の家族は音楽を愛する一家だった。家族は全員、ピアノを演奏できた。実家には防音を施した部屋もあり、日曜に音楽を愛する母の知人が集まって演奏会を開くこともたびたびあった。脳外科が忙しいとはいえ、毎年演奏会で発表しているというのだから、楽器の練習と仕事の両立が可能なのだろう。そう考えて、緑間は入団を決意した。