森を抜けた先に、地図に載っていない小さな村があった。常に霧に覆われているその村の話は、物語のように語り継がれていた。迷い込んだという人も、ぼんやりとした記憶しかないという。
その村にひとりの少女が迷い込んだ。黒い衣服を纏い、だれかに追われているように始終、振り返り背後を確認していた。
「助けて、いただけないでしょうか」
その村の入り口近くに建つ家の扉を叩いた彼女は、そう声をかける。しかし、家の中からだれかが出てくる気配はなかった。
「お願いします」
靴は擦り切れてぼろぼろとなり、足は歩き続けたせいで痛くて仕方がなかった。ずるり、と身体が傾いていくのを抑える体力も残っていない。ここで、死ぬのだと少女はおもった。父も母も、この争いの最中に亡くしてしまった。もう、彼女のことを覚えている人もいないだろう。
遠ざかる意識の中で、彼女は黒い大きな影を見たような気がした。
〈美しき夜のむすめ〉と、地から響くような低い声に呼ばれた気がした。
水底に沈んでいくように、ゆっくりと意識が沈んでいく。
おいで、とだれかの囁く声が聞こえてきた。だれ、と尋ねたつもりの口は思うように動かない。声にならない声が水底に沈んでいく。
「おいで」
再び、その声が呼んだ。少年の声。彼の言葉に耳を貸さないで、とわたしの中のだれかが囁く。しかし、少年の声はわたしのなにかを掴んだまま離さない。
「生きているのって楽しいかい?」
気がつけば血色の悪い白い肌をした少年が目の前に立っていた。わたしの頬に触れる。何の感触も感じることができなかった。わたしはその問いに答えることができず、彼もまたわたしの答えなど期待していないようだった。
「君はさあ、君の永遠を生きていくんだ」
さあ、と彼が手を差し伸べる。わたしはその手を取った。彼の言う、永遠を生きるために。
目を開けると夜の中に、赤がぼんやりと姿を現していた。
「ねえ、ルナ、知ってる? あの幽霊屋敷にひとが住み始めたんだって」
寄宿学校の中を、駆け巡るひとつの噂話。学舎の近くにある幽霊屋敷に、だれかが住み始めた、という話を、少女が友人に囁く。金の髪に赤い薔薇をモチーフにした髪飾りが動きに合わせて揺れている。
中庭を臨むベンチに腰を下ろした少女たちの声を聞く者はいない。ルナ、と呼びかけられた少女は読んでいた本から顔を上げた。彼女の横顔はとても綺麗だと、少女はおもう。すっと、通った鼻筋がうつくしい、と。その横顔が少女の方に向き直る。腰まで伸びる長い白金の髪が揺れた。
「幽霊屋敷?」
くだらない、とでも言いたそうに彼女の眉根が寄る。ルナは、興味のあるものとないものの差がはっきりしている。その性格は、一緒に居て気持ちが良かった。
「そう、ひとの影があるのを、見たひとがいるんですって」
興奮気味に話をする少女に対し、ルナはそうと素っ気ない返事をする。
「それは、わたしのことじゃないかしら」
ベンチの背後にある木の陰から声がかかる。姿を現したのは、顔の周りの赤い髪を編み上げ、後ろでシニヨンにしている少女。謎めいた笑みを浮かべた彼女は、ふたりの前で小さく膝を曲げ、礼をする。
「あの屋敷に少しの間だけ、暮らしているの」
幽霊屋敷と呼ばれていることは知らなかったけれど、と付け加えた彼女は悪戯っぽく笑う。それに対し、二人は曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。
「わたしは、ライラ。どうぞ、よろしく」
そう告げた彼女は、紺の制服のスカートを翻し校内へと戻っていく。彼女が少女たちの級友として教室に姿を現すことになったのは、翌日のことだった。
課題に使う本を探していたルナは、図書室の隅で本を積み重ね、熱心に本を読むライラの姿を見つけた。西日の当たるその部屋の中で、彼女の髪が同じような色に輝いている。読んでいる本のタイトルから、課題に関するものではなさそうだと見当をつけ、一緒に来ていたはずの少女に声をかけた。
「ステラ、ほら」
振り返った彼女に、指でライラの方をしめすと、驚いたような表情を浮かべる。殆ど関わることのないルナよりも、ステラの方が仲が良い。彼女は誰とでも親しげに話している。来たばかりのライラとも、一緒にいるところを見かける。それでも、彼女も何も知らないようだった。
「何を調べてるの?」
ライラの方へ近づき、ステラは声をかける。舐めるように本を読んでいた彼女は驚いて勢いよく顔を上げる。そして、近くに立つステラとルナを認め、ああと小さく声を漏らした。
「楽園はどこにあるのか」
彼女の口から出てきた言葉を理解することができず、ルナもステラも困惑する表情を隠すことができなかった。いつになく真剣な口調の彼女の赤い瞳が、きらりと光ったような気がした。
「なんて。本当は、歴史を調べているの。以前から興味があって。ここには、たくさんの本が揃っているのね」
先ほどとは異なり、軽い口調で応じる。たくさんの本、と彼女は図書室を見回す。壁に敷き詰められるように並んだ本棚と本を眺めた。
「ここの図書室は、学園長が力を入れて集めているらしいの。以前も、ボロボロの古い本を見つけたことがあって、驚いたわ」
ルナがふと、思いついたようなことを伝えると、ライラは興味を持ったようにその話を聞かせて、と身を乗り出してくる。
「いつ書かれたものか忘れてしまったけれど。魔女裁判の話が書いてあったから、それくらいの時代の話かしら。日記と物語の書かれた本だった、とおもう。詳しいことは忘れてしまったから、今度、探しておいてあげる」
少女が約束すると、ライラは嬉しそうに微笑む。
「ほんとう? 約束よ」
その言葉に、ルナは再び同じ言葉を繰り返した。
その本は、図書室の本棚の隅に収まっていた。長く、忘れられてしまっていたように。
「ねえ、ルナ。この前言っていた本って、これのこと?」
ルナが本を借りるのを待っていたステラは、ぼんやり眺めていた本棚の中から一冊の本を引っ張り出す。紅の表紙と、金の文字。角は擦り切れて丸くなり、表紙も少し乱暴に扱うと取れてしまいそうだった。
「そう、それだわ」
その本を受け取ったルナは中身を捲る。内容は覚えていなかったが、表紙は覚えていた。埃っぽい匂いは変わらない。百頁ほどのその本には、童話と彼女の残した日記が書かれていた。
「ねえ、これ」
横から頁を覗きこんでいたステラが指をさす。少女が示したのは、物語の作者が描いたという少女の絵。それは、どこかライラに似ていた。
「親愛なるライラへ」
思わずふたりの口から零れたのは、挿絵の脇に記されていた言葉。
「読んでしまったの?」
冷たいものが背筋を走ったのを、ステラは気のせいだとは思えなかった。ゆっくりと振り返ると、ライラが微笑んで立っている。その目は赤く光って見えて、少女たちは持っていた本をどちらからともなく落としてしまう。どさり、と本が床に落ちる音がした。
「大切な友人の本なの」
ふたりの方へ近づきながら、少女がその本を屈んで拾いあげる。そして、優しく表紙を撫でた。
「これは、わたしの本なの、見つけてくれてありがとう」
ライラはその本を大切そうに抱えると、窓の方へ近づいていく。窓を開け放つと、風が吹き込んだ。強めの風が吹き込んできた時、ステラとルナは思わず、目を閉じた。ふたりの髪が巻き上がっていく。
「あなたたちと過ごせて、楽しかった」
少女の声が耳に届く。待って、と言おうとしたステラの言葉が風に巻き込まれていく。
ふたりが目を開けた時、少女の姿はどこにもなかった。慌てて窓に駆けよるが、影も形も見当たらない。まるで、元から誰もいなかったように。ただ本だけは、確かにそこから消えていた。
風とともに消えた少女の行方を、誰も知らない。こちらのブースもいかがですか? (β)
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