第八回小説宝石新人賞最終選考残留作品。
空腹と暴力に怯える不幸な少女、瑠奈の目の前にあらわれたのは、アダムと名乗るひとりのオカマで……。少女とオカマの不協和音!
※ムナクソが悪くなっても責任はとれません。
【冒頭立ち読み】
暴力は理不尽だけれど空腹は理不尽ではない。なぜなら暴力は誰かに与えられるもので、空腹は自分から生じるものだからだ。瑠奈がそのことについて気付いたのは、六歳になった年の秋だった。それはちょうど、寺澤さんと一緒に住むようになった時期と符合する。
寺澤さんに殴られて、瑠奈の左の鼓膜はやぶれた。
以来、瑠奈は寺澤さんのことが怖くてしかたがなくなってしまった。とはいえ二部屋しかない狭いアパートの中では、寺澤さんと顔をあわせないことは困難だ。よって瑠奈はいつも、押し入れの中に閉じこもって過ごしていた。
瑠奈は常に寺澤さんの機嫌を損ねないよう努力していた。音は空気の震えから発生するものだと知り、呼吸を止めてみたこともあった。けれど逆効果だった。息を止めて苦しくなると、人はそのぶんたくさん息を吸って、吐いてしまう。その空気の震えは音になり、ときとして「うるさい!」と、寺澤さんを怒らせることとつながる恐れがあった。よってもっとも効果的なのは、小さく吸って、小さく吐くこと。足音を立てないように歩き、気配を殺すこと。
寺澤さんは不思議な人で、普段は小心なのにお酒を飲むと気が強くなった。お酒は家に、あったり、なかったりした。瑠奈の食べ物も、あったり、なかったりした。母はいたり、いなかったりした。母が家にいるときは、瑠奈ではなく母が殴られた。
だから瑠奈は学校が終わってから母が帰宅するまでの時間を外で過ごした。母はいつも仕事を転々としていて、いつも忙しそうだった。寺澤さんは出会ったときから変わらず、家でごろごろしているだけで、時々パチンコに出かけるくらいしか、用事がないようだった。
そうこうしているうちに歳月は流れ、瑠奈は四年生になった。空腹は年々強くなっていった。しかし空腹には底があった。ゆっくりと、徐々にお腹が減っていき、ああ、もうすぐ限界だと思ったころ、四肢に力が入らなくなる。そこが空腹のどん底だ。どん底を迎えると奇妙なことに、たちまち空腹を感じなくなる。元気になってちょろちょろ動き回った後、再び空腹に襲われる。その繰り返しだ。空腹であるときと、元気であるとき、その間隔がだんだん短くなってきたら、危険信号。何か食べないとやばい。
このように空腹はある程度、その訪れを予想することができた。動けば動いたぶんだけお腹が減るので、ある種の自業自得ともいえる。でも暴力はいつだって突然だ。だから怖い。
それから寒さと暑さも、瑠奈にとっては恐ろしいものだった。どちらも瑠奈ひとりの力では防ぎようのない物だからだ。寒いときには暑さが恋しくなり、暑いときには寒さが恋しくなった。
雨や雪などの天災も死活問題である。瑠奈はだいたい、下校の時間いっぱいまで図書室に残り、夜の十時までは近所のスーパーのベンチに座って暗くなるまでを過ごしていた。そのあとは、アパートの前で母親の帰宅をじっと待つ。雨や雪になるとアパートの前で立ち続けるのはとてもつらい。暑くてもつらい。寒くてもつらい。このごろは小学生を狙った変質者が増えているから用心しななさいと担任教師は言っていたが、幸いにして瑠奈は、今のところその変質者には遭遇してはいなかった。
瑠奈が暮らすアパートは、二階建てで四つしか部屋のない小さなアパートだ。クリーム色の壁に雨だれの跡が黒く残っている他は、これといって特徴がないごくありふれた建物である。
都心部に歩いていける距離にあるため、いろいろな人がコンスタントに入居したり引っ越していったりした。瑠奈たち一家は、現在そこで最古参の住人だった。
二○二号室。そこが瑠奈と母と寺澤さんの暮らす部屋番号だ。外と中を隔てるドアは発泡スチロールのように軽い。きっと空気の震えはすぐ寺澤さんに伝わってしまうことだろう。
ので、瑠奈は一階の隅にある集合ポストの前でさえ、小さく呼吸をするようにつとめていた。
アダムは瑠奈が小さく息を吸って、吐いているときにあらわれた。
「また、居たぁ」
真夜中だった。
寒さに震えながらしゃがみこみ、丈の足りていないコートで無理やり膝を包んでいたときの出来事だ。うつむいて地面の砂利をいじっていた瑠奈の目の前に、突如として人影が立ちはだかったのだ。
ふわふわのファーが襟元に飾られた、黒いコート姿の男の人だった。色素の薄い、どこか儚げな顔立ちをしている。二十代半ばだろうか、なかなかの美形だ。それなのに唇に不健康な紫色の口紅を塗っているのは、とても奇妙な光景だった。よく見れば他の部位にも化粧をしている。
「昨日も、その前もここにいたよね。あんた、二階のキンジョーさんちの子でしょ? あたし、あんたの家の下に住んでるんだぁ」
ぎょっとした。彼は男の人の姿をしているのに、どうして女の人の言葉を話すのだろう。
「あたし、アダムっていうの。家に入れないならうちにおいで。一緒に卵スープ飲もー」
知らない人にはついていってはいけません。あやしい人には声をかけられても無視しなくてはいけません。学級通信の最後に必ず書かれていた文面を思い出す。先月も隣のクラスの茂原くんが、夜道で謎の黒い影に襲われかけたという。見知らぬ大人には注意を払わなくてはならない。――はずなのに。
「そんなところに居たら、風邪ひいちゃうよぉ」
気が付いたら瑠奈はふらふらと、男の方へと近づいて行った。
前に母が「あんたも女なら、ぱんつの一枚や二枚、買ってくれるおじさん見つけなよ」と言っていたことを思い出したのだ。この人は多分、まだおじさんというほどの年齢ではないけれど(そもそもおじさんと分類していい性別の人なのか、よくはわからないけれど)、果たして瑠奈のぱんつを買うのだろうか、それとも奪うのだろうか。もしお金をもらうことができたら、コンビニで何か食べ物を買ってこようと、そう思ったのだ。