軋む車輪の音を響かせながら、電車が再び動き出す。その途端に胸を満たしたのは、罪悪感ではなく不思議なくらいの安堵だった。
逃げ出してしまった。とうとう。ようやく。
不意に力が抜けて、空いたボックス席によろめくように腰を下ろした。高鳴りだした心臓の音がうるさい。
最近、どこかへ逃げたくて仕方がなかった。逃げる行先も理由も、何一つはっきりしてはいなかったけれど、ただどこかへ、今自分がいるべきところじゃない場所へ逃げたかった。
膝の上に載せたリュックサックを抱きしめると、細く、静かに雨が降り出した。人気のない車内に小波のような雨音が響く。
その音のせいか、電車の心地よい揺れのせいか、はたまた気が緩んだせいか。原因は分からないけれど、吸い込まれるような眠気に襲われた。
「じゃあ、また連絡するね」
「気を付けて帰るんだよ~」
彼女の後姿が駅の雑踏に消えていくまで見送って、さて、と大きく伸びをする。俺も帰るとしよう。
ふと目をやったガラス戸に映る、何の感情も浮かんでいない自分の顔。さっきまでにこやかに喋っていた人間と同じ人とは思えない。
でもまぁ、本当はこっちが素なのかもしれない。
雨がこれ以上ひどくならないことを祈りつつ、帰り道を駆け出した。雨雲が近づくとき特有の、水の匂いがする風が吹き抜けていく。
「……あの日の海、綺麗だったね」
零れた独り言に、幸は懐かしそうに答える。
「そうね。帰りが遅くなって家に着いてから目一杯叱られちゃったけど、私にとってはそれもいい思い出よ」
思い出話に花が咲く間も、幸は手を離さずにいてくれた。その温もりから、どうしても、こう付け足さずにはいられなかった。
「私は、これ以上何もいらないって思ったよ」
少し考え深げな表情のまま、幸は頷いた。
「私もだよ」
あの頃の私たちは無敵だった。二人がいるここが世界の全てだと信じて疑わなかったのに。
薄暗い部室で楽譜とにらめっこしていたのは、同じバンドメンバーの怜央だった。
楽譜に目を落とし、拙いながらも力強く弦を弾く。他に雨音しか聞こえないくらいの静けさのせいか、室内の仄暗さのせいか、その横顔はいつものあいつからは想像できないくらいの真剣みを帯びていた。取り繕うことさえ頭から消えた人間だけが浮かべる、あの表情。
それは、いつも余裕たっぷりに笑ってみせる怜央とは別人のようで。
怜央はよく部室に来ていたけれど、練習よりは他の部員と話していることの方が多かった。実際、社交的なあいつの周りにはよく人が集まっていたし。だから正直、軽音部に入ったのも音楽をやりたかったのではなくて、交友目的なのだろうと勝手に思っていたくらいだ。
そんな怜央が、なぜ。
あたしだって、いつか素敵な恋ができることをずっと夢見ていた。「恋」。その単語を聞いた途端、ほっぺたが緩むような幸せを感じて、あるいはほんの少しの切なさを思い出して、青春だなぁなんて人は思うだろう。もちろんあたしも、その言葉を聞くたびに胸をときめかせていた。
麻里奈はあたしが樹のことを好きだと言ったけど、そんな「恋」が、こんなにもぎすぎすした嫌な感情であるはずがない。
もやもやした気持ちを振り払うようにラケットを振る。ぱこんと音を立てた黄色いテニスボールが、見ていて気持ちがいいほど真っ直ぐ相手コートに入った。きれいに決まったスマッシュの軌跡を見届けながら、何かに誓うようにあたしは思ったのだ。
あいつのことが好きなんて、絶対あり得ない。
この町の子供は、何というか、変な奴ばかりだ。何が原因なのか知らんが、皆生まれつき人間離れした力を持っているのだ。
力といってもアメコミに出てくるヒーローみたいな派手なものではなく、「限られた距離間で瞬間移動ができる」とか、「三〇字以内でテレパシーが使える」とか、とにかくしょぼい。そして大抵の子供は一五になるかならないかの時期を境にこの力を失う。
特に役に立つわけでもない、期間限定の地味な力をどうして与えたのか。カミサマってやつは何考えてんのかさっぱり分からねぇ。
困ったように笑うクラスメイトの山下陽さんは、雨の日だけ透明人間になるという特異体質だ。
○「梅雨明けの図書室」
→保健室に行く途中ふらりと立ち寄った図書室で、自分お悩みを聞いてもらうお話、青春。
・試し読み
きれいな横顔だった。
その先生がモデルみたいとかじゃなくて、ぴんと伸びた背筋とか、じっと手元を見つめる瞳とか、先生の全部がきりっと格好良かったんだ。草の匂いが混ざった風が吹き抜けて、先生の前髪をさらう。その軌跡だってきれいだった。
どれくらいの間見つめていたんだろう。はっと我に返ったときには、先生が目の前に立っていた。授業を抜け出して図書室に来たんだと思われたら、叱られちゃうかもしれない。
「あの、わたし、保健室に行く途中で……」
言い訳するみたいに付け足すと、先生は少しだけ眉を上げた。
「具合が悪いんですか?」
言われてみると、別にどこも悪くないのかもしれなかった。教室を出てからは、ぎゅうぎゅう締め付けられるような息苦しさとか、頭の重さとか、具合の悪い感じが少しずつ薄れてきたような気がする。でも具合も悪くないのに保健室に行くなんて変だから、なんて答えればいいのか分からなかった。
○「雨音と共に眠れ」
→あの日以来雨の降る夜に電話をしてくる友人との短い会話劇。
(掌握のため、試し読みは割愛します)
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