彼女の声で僕は駆け出して、それでも一歩間に合わず、頭からおもいきり塩水を被る。僕を指差してお腹を抱えてわらう彼女に苦笑いをプレゼントして、抱きつく二本のうでの、肌の質感がふしぎに冷たい。貝殻を閉じたように二人だけで、この誰もいない、ヤドカリだけが僅かに家探ししている静謐な砂浜で、閉じこもって永遠に、裏側と表側になってぴったり合わさっていたい。
ねえ、月が追いかけてくるみたいだって、思ったことはない?
あるよ。僕もある。そう、私もある。でも、違うのよね。月は平等に誰も追いかけない、でも、この波は。
追いかけてくるみたい、ただ、わたしたちだけを。
◆
――花粉は、幸せな夢を与える。
それは古の呪いに近い夢物語だった。老婆の口から幼い子供へ、代々伝えられてきたまやかしの奇譚である。件の大木は森のなかにひっそりと立ち、見た目では変わったところがない。しかし見る人が見れば(それはつまり木を必要とする人が欲せば、ということなのだが)、きわめて美しい黄金の花粉を散らせる。花粉の種は小さいのに、何故か淡光を纏っているから体積が膨らんで蛍のように見える。光そのものが降り注ぐその様子は、佳景としても名高い。
男は木を欲していた。
人生における最高の記憶について、思いを巡らせる。愛を伝えた日、彼女は手を取って喜んだ。初めてのデートは二人で海へ出かけてびしょ濡れになった。手作りのホットサンドが少し塩辛かったことを覚えているし、これからも忘れない。
唐突に続きの立ち消えた小説のように、戯曲の二番が用意されていなかった踊り子のように、男はいま一人で立ち尽くしている。失恋というのは圧倒的に個人的な問題だが、本人の中では世界の終焉と同じだ、とする文豪の言葉を思い出した。感傷的な気持ちのまま、誰にも思いをぶつけることが出来ない。今にも心臓を突き出て喉から溢れ出しそうな感情に気付き、当てもなく森のなかを彷徨っていた。しかし歩みを進めるなかで、男は一つの天啓を得る。
「……幸せな、夢……」
小さい頃に父が、あるいは近所の読み物士が、聞かせてくれた物語。
町外れの森のなか、願いながら歩けば、世にも不思議な大木にたどり着ける。その木は季節を問わず金色の花粉をなびかせていて、布袋に入れて持ち帰れば夜、幸福な夢が見られる。
古くから伝わるただのおまじないだ。分かっている。
しかし、そんな馬鹿らしい空想にすら縋りたい。
大木。
その名を、アルプと言う。遠国では夢魔と呼ばれることも多い、人間を惑わす魔性の木だ。
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