8000字程度。二段組。
正気であることを確かめるために俺はひとつのQ&Aを用意することにした。もしも狂気に揉まれず、不安に襲われず、動揺に惑わされず、ここが夢でないのなら必ず正解する問いだ。
好きだけど好きじゃないものなーんだ?
そこは電車で、がら空きで、長椅子の席にはだれも座っていなかったのに、若槻はつり革をもって立っていた。窓にはおびただしい雨のおたまじゃくしが這っており、車両全体がゴゴゴゴと震えていた。アナウンスは何か意味のある言葉をくりかえしているが、聞きとることはできない。床では若槻のものらしきスクールバッグが倒れていた。彼はイヤホンをつけていた。
俺は彼の後ろにたって、尻に手を添えた。
彼は元野球部で、クラスメイトで、隣の席で、とくに話すわけでもない。でも、その程度の関係の人間にも今までもたくさんいたずらしてきた。
夢のなかで。
若槻の尻は硬かった。今までは女の尻ばかり触っていたため、あまりにも感触が違うことから「触る場所を間違えたのではないか」と視線を落とした。彼は制服ではなく野球部のユニフォームを着ていた。現実では制服の姿ぐらいしかろくに見たことがないのに。活躍していて、有望で、つよくて、人気だったらしいが、見られなかったユニフォーム。肌ざわりはなめらかだったが、ときどきつぶつぶとした。きっと砂だ。
「どうよ、若槻。尻を揉みしだかれる気持ちは? いや、しだけてないけどな。もうちょっと柔らかくしろよな。カッコ良くなるばっかりじゃ疲れるし、鍛える意味ももうなくなったろ?」
雨が斜めに降っていると思ったら、雪だった。まずは窓ガラスに密着して、小さなものから水になって流れてたまって軌跡をつくる。
夢はひとりでやるソーシャルゲームだ。入力もフレンド機能で呼び出した他のプレイヤーには読まれない。したがって、誰もレスポンスを返さない。
ズボンを勝手にずり下げても、怒られない。
下着はボクサーパンツで灰色だった。野球部だった兄の洗濯物にはスライディングパンツがあった。分厚い生地で、ユニフォーム姿の兄は下半身ががっちりしているように見えた。ウエストゴムの両側に指をひっかける。ぱちんぱちん。音を楽しんだところで、ずるずると下ろす。つるつるとした尻があらわれた。ふつう、男の尻の汚さは一瞬で現実に引き戻す力があるものだ。若槻の生尻は、ハリがあり、みずみずしく、透明感があった。なにより大きい。しかし揉み心地は最悪だ。やわらかそうに見えるおっぱいがカチコチだったかのようなショックを受けた。漫画で読んだ、薬をのみすぎるとおっぱいが固くなる。若槻は前を向いている。もはや外の景色が見えないほどに雨の流れが窓を覆っている。
「肉は叩くと柔らかくなるって聞いたことがある気がするんだよ」
パシーン、パシーン、パシーン。
電車の中で大して親しくもないクラスメイトの尻を露出させて叩いた。
気持ちがいいほど真っ赤になってうれしかった。
「あいつの授業は眠いわな」
三時間目が終わった教室で、すでに生徒の集中力は空腹と疲労から切れつつあったため、若槻の返事は喧騒にまぎれつつあったが聞こえた。
「そうだな」
会話の基本は終わらせないことにある。解決のための話し合いと違うのは、その無意味さにある。なぜ終わらせてはいけないのか。どうして続くことが正義なのか。会話はかぎりなく薄いやりとりを続けることでつなぎとめられる程度のかぎりなく薄い関係を続けるためにある。なぜ終わらせてはいけないのか。どうして続くことが正義なのか。三時間目の授業中、若槻は一度だけあくびをかみころした。長い下まつげに水滴がたまった。それを拭うのに、右手を使おうとして、一瞬ぎこちなく止まって、左手で拭った。
「宿題と復習と予習とあわせてふだんの遅れも取り戻さなきゃならんのだから、まあ、大変だな」
「なんでおれに構うんだ」
現実の若槻はきちんと言葉を発する。
「ふだん、話さないだろ。どうやって話すのかと思ってな。声を聴いてみたかっただけだよ」
多くの人間は一日の三分の一の時間を睡眠に費やす。多くの生徒は学業や部活や塾や習い事や遊びやかぎりなく薄い関係の維持のために三分の二を費やす。俺たちがもっとも自由でいられるのは睡眠時間だけと言っていい。
人生をゆたかにすることで、夢はゆたかになり、夢をゆたかにすることで、人生もゆたかになる。
夢のために現実に努力をする。夢に向かってひたむきにがんばる。夢のあるはなし。
「おれは……珍獣か」
若槻はぼそりと言った。彼は野球部の元エースで、しごかれるはずの一年生のときから一目を置かれ、特別な待遇を受けて、それに見合うだけの成果を出し、主に女子からの歓声を受け、されどそうした周囲からの入力を無視するように何も出力しないでいた。
「違うのか?」
尻を叩かれた若槻はひとつの悲鳴もあげなかった。
「ただ、人と話すのが苦手なだけだから」
クラスの端にいた男たちがこちらを窺っていた。野球部だ。彼らは若槻より体格がよくなかった。まだ昼にもならないうちに肌がテカテカとしていて、遠目からでもニキビ面で頬が赤くなっているとわかった。若槻は少し長くなりはじめた前髪をいじっていた。視線を野球部とは反対側に、俺から目をそらすようにどこでもない場所に向けていた。
「ちょっと復唱してみい」
「なに?」
「『あん』『ああん』『あん』『あん』」
「『あん』『ああん』『あん』『あん』」
「背中を孫の手で掻いたら?」
「孫の手ってなに?」
「かさぶたをきれいに剥がせたら?」
「……気持ちいい?」
前髪から手を離して、若槻は俺をじっと見た。微笑を作ろうと一度だけ試みて止めたような強張りが顔いっぱいに広がっていた。
「頭がおかしい」
そこは電車で、満員で、長椅子の席にはびっしりと人が並んでいて、若槻はつり革をもって立っていた。カチャカチャと彼のズボンを脱がして、灰色のボクサーパンツを下ろした。
パシーン、パシーン、パシーン。
リズミカルな音に合わせて、若槻は短くあえいだ。きれいな尻は桃のように赤くなった。傷ついた尻を撫でると不動だった若槻の足がすこし動いた。
「気持ちいいのか?」
「……気持ちいい?」
撫でる手を離してから、切りつけるように尻を叩いた。衝撃からか、つり革を激しく揺らして若槻は座席に倒れそうになった。「気持ちいいだろ」撫でてやる。「……気持ちいい?」さらに強く殴って「気持ちいいか」さらにやさしく撫でた。「……気持ちいい」彼のベルトをふるった。誤って座る乗客の顔を叩いて眼鏡を吹っ飛ばしたが、何度か往復するうちにコツをつかんだ。若槻はすでにつり革を手放してスタンションポールにすがりついていた。
「あんあん!」気持ちのよい目覚めだった。
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