夏美は、母の記憶が無かった。二歳で生き別れ、小六になった現在まで行方は判らないまま。
けれど母の胎内の記憶はある。暗くて蒸し暑い中に体を縮めて入っていたのだ。
母に心の底から愛され守られていたような気がする。そんな、根拠のわからない自信があった。
父との二人暮らしに不自由は無かった。あったとしても、母のいる暮らしを覚えていない夏美にとっては普通のことで、気にならなかった。
父子家庭を頑張っている父であるが、その年の夏休み、問題が起こった。四日間の海外出張へ行くことになったのだ。
海外出張はこれまでもあった。問題は、いつもなら出張中に夏美の世話をしてくれる幸代伯母の都合が悪いことだった。
「旦那の実家に行かなきゃなのよ、例の飛行機の距離の。お義母さんが倒れちゃって、義姉さんが看護してたんだけど過労でバタンでね、もうど~にもならないから助けてって泣きながら電話来ちゃったら行くしかないじゃない!」
幸代伯母はいつもの通り、勢いよくしゃべる。
「で、うちの旦那がね! 単身赴任だから純をあっちにやろうとしたんだけど、なにせ独身寮で六畳間でしょ、無理っていうからアンタに任せようと思ったくらいなのよ!」
純は夏美の、同い年のいとこだ。ソファでモバイルゲームをしながら「俺別に一人で留守番できるよ、一週間くらいさ」とぶつくさ口をはさんだ。
「なんかあったらど~すんの! 夏美ちゃんと二人で留守番ってのもねぇ、子供同士なんだから無意味だし」
父と幸代伯母は腕組みをして、眉間に皺を寄せる。さすが姉弟、そっくりの仕草である。
夏美とて一人で留守番くらい出来るのだが、一週間は心細い。純と二人でもいいが、少し気恥ずかしい。なにせ夏美は、一学期の最初にブラジャーデビューを果たしたのだ。あれを干しているのを目撃されたくない。純ならからかったりはしないだろうが、嫌なものは嫌だ。ちなみに、下着は父のと分けて洗っている。父のヨレヨレのパンツと夏美の可愛い下着とを、同じ無神経さで洗われてはたまったもんじゃない。
勿論、伯父の独身寮に放り込まれるのは言語道断だ。今は自分の部屋に干しているブラジャーを、まさか伯父の六畳一間に干せと?
おずおずといった風に、幸代伯母が言った。
「アソコはどう?」
黒々と化粧した睫毛をぱちぱちと瞬かせ、上目使いで父を見る幸代伯母は、ぽっちゃり厚化粧なのに不思議と可愛かった。
「え、どこ?」
「優太君ち」
優太は叔父だ。母方の、である。
父は一瞬、強張った表情をした。
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