コウは、裸足だった。
初めてうちに来たときのことだ。それから、もう一年ほどになる。
「あの少年は、もう来ないのか」
カラスが問う。
「来ないよ」
僕は、そう答える。
「二度と来ないのか」
カラスは、重ねて問う。
「来ないよ。二度と来ない」
「寂しくないのか」
「もちろん寂しいよ。でも、別れは寂しい方がいい」
カラスは、庭のハクモクレンの枝にとまっていた。二階の窓から顔を出すと、ちょうど目が合う。そこが、彼の指定席だった。
夜明け前の、一番寒い時間だ。
「早くにすまないな、あとり」
カラスは、そう言って詫びた。あとり、というのは僕の名前だ。
昨日、日が暮れた頃に降り出した雪は、まだ弱く降り続いていた。手を伸ばせば、ふわりと手のひらに落ちる。そして、小さく刺すような冷たさを残して、消えていく。
見下ろせば、冬枯れの庭は、すっかり雪に覆われていた。楓とハナミズキは葉を落とし、骨のような身体を晒している。楽しいことも苦しいことも、全部ぜんぶ終わったあとのような、ひどく寂しい風景だった。
そういう中にあって、カラスがとまっているハクモクレンだけは、ひとつ、またひとつと、花を咲かせていた。
「あなたも、僕に別れを言いに来たんだろう?」
僕は、カラスにそう問うた。
ふむ、と、カラスは控えめに頷いた。
「なあ、あとり。私との別れも、寂しいと思ってくれるか」
「もちろん、思っているよ」
カラスは、居心地悪そうに目を逸らした。
彼が僕の名を呼ぶとき、ほんの少しこちらに寄り添うような響きがある。それはたぶん、あとりという言葉が、彼と同じ鳥類を指すものだからだろう。出会ったばかりの頃に意味を聞かれ、鳥の名前だと僕は答えた。生きているそれを見たことは、一度もない。図鑑を引っ張り出し、そこに描かれた精密な絵を指さすと、カラスはじっとそれを見つめて、言った。
――一度だけ見たことがある。一度だけ。すぐにどこかへ行ってしまった。
胸元は枯野の色で、雪に映えていた。春には、遠いシベリアに行ってしまう。僕の名前に宿っているのは、そういう鳥だ。彼は僕の名前の中に、その鳥の姿を重ねているのかもしれない。
僕らが出会ったばかりの頃、もう十年も前の話だ。
そのころ僕は中学生で、一方カラスは、生まれて初めての冬を越したばかりだった。最初の冬を越せたら、あとは大丈夫なのだ、と。初めて会ったとき、あどけない声でそう言っていた。飛べるのか不安になるくらいに痩せ細っていたので、そのとき手に持っていた給食の残りのパンを半分やった。それで、僕らは友人になった。
そして、彼自身の言葉のとおり、次の冬も、その次の冬も無事に乗り越え、十年ほど生き続けている。そろそろ寿命だということだろう。わざわざ別れを言いに来るとは思わなかった。段々と疎遠になり、いつの間にか互いのことを忘れ、ふとした瞬間に思い出しては、きっと、もう死んだのだと思うのだろう。そんな風に考えていた。
「お前ほど長く生きていれば、別れなどいくらでもあるだろう」
「……どうだったかな」
僕は、煙草に火を点けた。朝一番に吸う煙草は、頭が思い切り締め付けられる気がする。ゆっくりと、できるだけ細く煙を吐き出しながら、少しの間、考えていた。それまでに出会った人や、人ではないものたちについて。そして、それらとの別れについて。
「あなたの言うことは、確かにその通りかもしれない。だから、やはり、別れは寂しい方がいいんだよ、きっと」
「分からん」
「うん。でも、大切なものはたいてい、寂しいものなんだ」
そうか、と。
カラスは、頷いた。
「では、あの少年は、どうして来ないのだ」
「別に、何か良くないことがあったわけじゃないよ。ただ、コウに対する僕の役割は終わったんだ」
「人は、役割がなければ会うこともできないのか」
それは、中々鋭い指摘だと思う。
「会うことはあるかもしれない。それはそれで嬉しいことだけれど、僕らが同じ時間を共有することはもうないんだ。僕はこの春から新しい仕事に就くし、あの子は高校生になる。家庭教師と生徒は、もうおしまい」
「難しいな」
「そうだね」
そして、僕らは互いに小さく笑い合った。
「あの少年のことを聞いてもいいか」
「うん?」
「私は離れて見守ることしかできなかったからな。あの子は多分お前のことが好きだっただろうし、お前たちが一緒にいるのを見ているのは楽しかった。だから、お前たちはこの先も、ずっとこのままだと思っていた」
カラスが、以前言っていた。人の命は短いなどと言うが、それは嘘だろう、と。確かに、烏の寿命に比べれば長い。過去に耐え難い別れはあったかもしれないけれど、それで何かが終わったわけでもない。
別れは、不在という言葉に変化して、ずっと続いていく。
「そうだね。……少し、昔話をしようか」
僕は、コウのことを思い出していた。
一年前、初めてこの家に来たときのことから、順番に。
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