それは、とある初夏の金曜日、彼の一言から始まった。
「ちょう、とんぼ?」
私は、確かめるように、ひとつひとつ区切って言った。しかしそれは、一連なりで虫の名らしい――『ちょうとんぼ』という虫の。
蝶なのか、蜻蛉なのか。いや、そのどちらでもないこともあり得る。『蜻蛉』と名乗っているのに、とんぼじゃない昆虫にだって、何度か遭遇してきたのだから。私は記憶の糸をたぐり寄せ、彼から以前に教えてもらった虫の名前を思い出す。蜻蛉に似ているけれど、よく見ると蜻蛉ではない虫。蜻蛉とは似ても似付かないのに、蜻蛉と名の付いた虫。
「『つのとんぼ』とか、『へびとんぼ』みたいな感じ?」
「ちゃんと覚えててくれたんだ。偉いね。……でも残念、はずれです」
彼はにっこりと笑い、それから両手の人差し指で小さなバツ印を作ってみせた。誉められたけれど、ちょっと小憎らしく、そしてちょっとかわいらしい。彼といると感情が忙しくていけない。それでも今の私は、その目まぐるしさがないと、きっと寂しくて途方に暮れてしまうだろう。
はずれです、と言われたけれど、それではいったい『蝶蜻蛉』とは何者だろう。結局、知りたい気持ちを抑えきれずに、私は「先生!」と挙手をした。
「質問があります」
「はい、どうぞ」
「そもそも、蝶なの? 蜻蛉なの?」
「トンボだよ。トンボ目トンボ科チョウトンボ属、チョウトンボ」
彼は、眼鏡をくいっと上げた。眼鏡の奥にはいたずらっぽい笑み。これ以上のヒントはもらえない、というサインだった。彼は、私があれこれ考えている顔を見るのが楽しいらしいのだ。
蜻蛉だというのならば、『蝶に似た蜻蛉』ということなのだろう。
私はさっそく、蝶と蜻蛉を頭に思い浮かべてみる。頭、胸、腹の三つの部分に分かれていて、足が六本、翅が四枚。体のつくり自体の大きなところはあまり変わらないように思う。それでは、見た目が蝶に近い蜻蛉なのだろうか。
たとえば、顔はどうだろう。虫の顔は、触角、大きな複眼、それに口でできている。蝶は花の蜜を吸うストロー状の口、蜻蛉は他の虫の肉を砕く顎。ストローを持った蜻蛉、つまり蜜を吸う蜻蛉は、さすがにいないような気がする。
それでは、翅は。私の知る範囲では、蜻蛉の翅は透明なものが多くて、蝶の翅は彩りさまざま、カラフルなイメージ。数はどちらも同じ四枚だけれど、色や形が蝶に似た蜻蛉がいてもおかしくはない。
「蜻蛉だけど、蝶みたいにきれい――ってこと?」
「トンボも綺麗だけどね」
(続く)
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