琴原頼子(ことはらよりこ)は躊躇っていた。
豪華な彫刻が施された一対の扉は、隙間なく閉ざされている。冷たい金属の取っ手に手をかけたまま、頼子は身動きを取ることができなくなっていた。
日差しが背中を焦がしていく。今朝袖を通したばかりのジャケットの内側に、熱がこもっていくのを感じる。頼子は取っ手から手を離して胸元へ運び、小さく一つ深呼吸をした。
遠くから川のせせらぎと、運動部らしきかけ声が聞こえてくる。
紺色のジャケットの襟元を整え、胸元のリボンが曲がっていないかを確かめ、まだしわ一つないスカートへ視線を落とす。
「……よし」
頼子は小さく呟くと、飛び出しそうになる心臓を押さえ込むように、胸元の手に力を込めた。目の前に佇む、洋館のような―玉城学園高等部の図書館へ、頼子は飛び込もうとしていた。
呼吸を整えると、目の前の取っ手に両手をかける。軽く押してみると、見た目通りの重さが感触として伝わってくる。
大きく息を吸い込み、体重を乗せてぐいと押し込むと、蝶番からぎしりと鈍い音が響いた。二枚の扉の間に、わずかな隙間ができる。締め切られたまま長い時を過ごした空間特有の、ほこりっぽい空気を鼻先に感じた。
覚悟を決めたように一つ頷くと、頼子は全体重を扉に預けた。錆びた金属音が響く。足下の色褪せた緋の絨毯に、光の扇が描き出された。
明かりが付いていないようだ。春の陽光に慣れた目が順応しない。人影はなく、静寂が空間を支配している。奥に見えるのは、たくさんの本棚。
「……すみません」
絞り出した声はかすれ、空間に吸い込まれていった。古びた紙の匂いが鼻先をくすぐる。
「すみませ―」
先ほどよりも声のボリュームを上げながら、視線を上へと上げた頼子は、そこで動きを止めた。
高い吹き抜けの天井と、窓から差し込む淡い光。その空間を、
――本が、飛んでいる。
比喩ではなかった。
文庫本や分厚く巨大な本、見たことのある表紙のライトノベルまで。重力から放たれた本が光の尾を引きながら、図書館内を飛び回っている。
ある本は閉じたまま、またある本は蝶のように。空中でぶつかりそうになると器用に互いが避け合い、まるで一礼するかのようにわずかに揺らいだ後、再び動き始める。
「…………すごい」
呆気にとられたまま、頼子は思わず呟いていた。
高校の図書館では、本が空を飛ぶのか。
荒唐無稽な考えが頼子の頭をよぎった。
それとも、立ったまま夢を見ているのだろうか。瞬きをしても、目の前の光景は消えることがない。ほの暗い空間を、本が舞う―まるで小さい頃に見た、魔法学校の映画のようだ。
ぼんやりと考えていた頼子の数メートル手前、目線の高さを、一冊の文庫本が通り過ぎていく。
「あ、……」
頼子は無意識に一歩踏み出し、追いかけるように右手を伸ばしていた。
その途端。
ぴたり、と目の前の文庫本が、動きを止めた。僅かに開いたまま、空間に静止した本。まるで彫刻か何かのようだ。
頼子はぎくりとし、手を引っ込めながら恐る恐る、顔を上げた。思った通り、全ての本が空中で静止している。重そうな辞書が、数メートル先に浮いている。重力に従い床へ落ちれば、相当な破壊力だろう。
沈黙と重たい空気が、頼子に降りかかってくる。
―もしかして、私が、止めちゃった? でも、何を? どうやって?
背中がじわりと冷えていく。両手を握り締め、身をすくませる頼子の耳に、声が降ってきた。
「―Wer ist da?」
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