台風接近のため、開催は中止となりました。詳しくはText-Revolutions準備会のページをご参照ください。
それから一週間と数日後の土曜日。私たちは展覧会の会場に一緒に立っていた。彼は時々書道教室で見るような、黒っぽいTシャツとカーゴパンツという、忍者のような格好で現れた。学校や書道教室で見る彼は、ひっそりとした性格の人で、そのしなやかで高い身長さえ除けば、本当に隠密みたいだ。
じゃあ、行こうかと言われて、六百円のチケットを買った。ふと、書道教室の月謝の八分の一だな、と思った。
王羲之の書は入り口にほど近いところに展示されていた。
私は、展覧会の説明を読むまで知らなかったのだが、王羲之の書の真跡は、現在残っていないという。
彼には、「え、知らなかったの?」と驚かれてしまったのだが、仕方ないではないか。私が好きなのは彼の書いた字なのであって、王羲之のものではないのだ。
しかし、王羲之についての逸話で私がすごく共感できたのは、王羲之の書を愛し集め続け、果てに自分の墓にまで一緒に埋葬させてしまったという皇帝の話。
私は皇帝ではないけれど、皇帝が王羲之の書を愛した気持ちはよくわかる。
彼にも私と同じように文字が生きているように見えていたのかもしれない。
躍動する一画一画が人間の手足、臓物、血液、骨に見えて、どんどん愛おしくなってくる。他人の字ではだめなのだ。その人の生み出す字でないと。そういうところが、人と人がであう運命のようなものだと思う。
文字を愛することは苦しみも伴う。王羲之を書聖たらしめた皇帝は、成就しない思いを抱え苦しかったのかもしれない。
私も彼の生み出す文字を愛してしまったがために、それに雁字搦がんじからめにされてしまっている。成就しない愛に付随する苦しみさえも、喜びの一端となっていて、私はもう泣きながら笑えるくらいにおかしいのだ。
もし、死んでしまった時に自分の骨の隣に彼の書があったら。そう考えると死んでも、ものすごく幸せになれる気がした。
お金も権力もあり、私にとっては宝くじに当たるより難しいことを現実にしてしまえた皇帝は、本当に羨ましい。そんなことが許されるのなら、私だって皇帝になりたいくらいだ。
ひとえに自分の人生の最期に至った時、彼、朝倉亮太の書と共に眠るために。
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