意識を水とあらわすなら、からだは液体をおさめておくためのプールだ。
ミの鍵盤に人差し指をおく。重力にしたがって手の力を抜くと、注ぎこんだ意識はわたしだけのミの音になる。
よく音を聴きなさい、という絹枝先生の言葉どおりにやれるときほど、からだの内側にあるなにかが指先からあふれだす。雨音を思い浮かべて鍵盤をたたくと、本当の雨音となって耳へもどってくるのだ。みずから放った音の粒が部屋じゅうに充満すると、ぬるま湯に浸かっているかのような心地よさに包まれる。そのとき、わたしはプールだ、と思う。わたしの思う、身近でもっとも大きな容れものは学校のプールだった。人間の体温にならされて、ぬるくなった感じもよく似ている。
最近、そのプールから思うように水があふれない。うえから大きな板で蓋でもされてしまったかのように。
*
何の気なしに裏庭を見回すと、ニワトリ小屋の戸が中途半端に開いているのが目に入った。コスモスの花壇とちがって、じめっとした空気をまとっている。近寄ったことがないから、生き物がいるのかすら知らなかった。そこからふっと、男子が出てきた。しきりに靴の汚れを地面にこすりつけている。シャツの白さがいやに目についた。手にジョウロとホースを持っていたから、「あ」と声をあげてしまう。
その人は一瞬、顔をあげて、またすぐにうつむいた。足元の汚れを気にしているみたいだ。そして首をひねると、あきらめた様子でわたしのほうへ向かってきた。紺色の布地のスニーカー。白いゴムでできたつまさきが泥をかぶっている。
「ごめん。これ勝手に借りちゃった」
知り合いだったろうか。彼の口調は、親しいだれかに話しかけるようにくだけていた。ジョウロにはまだ少し水が残っている。コスモスにあげるぶんにはちょうどよかった。
「いえ、全然」
学校で男子に話しかけられるのは久しぶりだった。おっかなびっくり口から出たせりふは自分で聞いてもそっけない。表情はもっとぎこちないだろう。いたたまれなくなって、まばらに咲いたコスモスに目を落とす。
「ここ、いつもだれかきてる?」
その人は、わたしの挙動をさして気にもとめない様子でニワトリ小屋を指さした。シャツのポケットについた名札に「織田」とある。わたしと同じ青いラインが入っている。つまり、彼も二年生なのだ。
わたしが裏庭に来るときは、いつもひとりだ。朝の時間ということもあり、誰とも会ったことがない。そう説明すると、織田くんは「やっぱりそうかあ」と頭をかかえた。
「なにかあったの?」
コスモスに水をかけながら問うと、織田くんは、ふん、と短く息を吐いた。
「一年みんなしてさぼってたってことだな」
「さぼってた?」
「うん。ここのそうじは水泳部でやるって決まってるんだ。餌やりと卵はべつにしてね」
あいつら、なめやがって。織田くんは、靴についた泥をしつこく雑草にこすりつけている。ニワトリ小屋がそうじされていないことは明白だった。
「ここのニワトリ、うちの顧問が学校にゆずったやつなんだよね。だから汚いって聞いて、先生キレちゃって。俺、いちおう部長だから、見てこいって言われて」
ずいぶんなおしゃべりだ。相槌をうつタイミングがつかめない。すると織田くんはようやくわたしの様子に気がついた。
「あ、おれ初対面の人にむかってしゃべりすぎ」
笑うと歯並びがすこぶるよく、目尻が垂れる。年齢のわりにあどけない笑顔だ。それがためらいなく自分へ向けられていることがなんだかくすぐったい。
「ここ、毎日きてるって言ったよね」
こくりとうなずくと、織田くんは「よおし」と胸のまえで腕を組んだ。そして、こんな提案をした。
「裏庭同盟を結ぼう」
「裏庭同盟?」
声に出してみると、思った以上にこそばゆい響きだった。頬が熱くなる。
「人目につかないこんなところでホーシカツドーをする者同士、いうことで」
「わたし、花に水あげてるだけだよ」
「それも立派なホーシカツドーだよ。君は花のために、おれはニワトリのために」