【SAMPLE】
海へいくつもりじゃなかった
「ねえねえしまくん、これあげるね」
阿藤さんがそう言って僕の手のひらの上に置いたのは、淡いクリーム色のきれいな巻貝だった。
「海なんて行ったんだ」
「うん、昨日ね」
「昨日って阿藤さん風邪で学校休んでたじゃん」
「ん、だからその昨日」
どこか追及にも似た言葉をひらりと軽やかにかわすように、あっけらかんとした口調で彼女は答える。
「向かい側のホームの電車がさ、海岸行きなのがずうっと気になってたんだよねー。海なんて小学校の時の遠足で行ったきりだけどさ、間違えたふりしてあっちの電車に乗っちゃえば海に行けるんだなーって。で、たまたま昨日はいつも見かけるクラスの子も居なかったし、お天気も良かったし。絶好の海日和だなって思ったわけ」
「で、ずる休みして海に行ってたと」
「ずる休みとは人聞きの悪い。校外学習って言ってくれるかなぁ?」
「はいはい」
「またそういう言い方する」
不満げに唇を尖らせるようにしながら、彼女は答える。子どもじみた無邪気さを装うようなしぐさに合わせるように顎の下で切り揃えた髪がさらりと揺れ、光に透ける様が眩しい。日当たりの良いこの非常階段の中で光に包まれた彼女はいつも、ここがどこかを忘れさせるような曖昧な幻を僕に見せる。
「で、海で何してたの?」
はにかむように、どこか得意げに微笑みながら彼女は答える。
「貝殻拾ったりとか、ただぼーっと眺めてたりとか? あ、本読んだりとかもしたよ。お昼になったらお弁当も食べたし。あとね、音楽も聴いたよ。真心ブラザーズとか」
「サマーヌード?」
「それもいい曲だけど、うみもいいよ」
「ごめん、それ知らないや」
「今度歌ってあげる」
「今でいいじゃん」
「やだよ、恥ずかしいもん」
笑いあいながら互いに肩がぶつかりあい、慌てて距離を取り直す。恐らくあの場所、あの時だけに存在した淡く緩やかな繋がりを僕は思う。きっとそれは、彼女だって口に出さなくても気づいていたのだろう。
「しまくんも良かったら今度一緒にいこうよ、うみ」
「いつ行くの?」
いぶかしげに尋ねるこちらを前に、お得意の強気な笑顔を浮かべるようにしながら彼女は答える。
「そこはほら、創立記念日とか?」
「寒いよ、きっと」
「でもそういうのもいいじゃん。好きだけどな」
「阿藤さんがそう言うならたぶんそうなんだろうね」
「たぶん、じゃなくてきっと、ね」
「じゃあ言い直すよ、きっといいに決まってるね」
「うん」
満足げにうっとりと瞼を細めるようにしながら告げられる言葉を前に、僕はただ、黙ったまま、遠慮がちな瞬きで答えてみせる。まるで、この瞬間をそっと写し取るためのカメラのシャッターを切るような心地で。
いつものように、あの開かない扉を眩しげに見つめながら僕はつぶやく。
「海、楽しみだね」
「うん、たのしみだね」
得意げにそう答えるその笑顔が、いやに遠くに見えたのが思い過ごしでないのだとすれば。
結局僕たちのその約束は果たされず、僕はもうずっと故郷のあの海を訪れたことはない。
あの時もし、阿藤さんと海に行っていたら何か変わっていたのかもしれない。そんなことをぼんやり考えては、僕はそれを慌てて頭の中からかき消す。
そんなこと、ありはしない。ありはしないのだから。
あの時貰った貝殻は、今でもCDプレイヤーの前に置いたままにしてある。僕は時々それを耳にあて、聞こえてくる波の音に耳を澄ませてみる。
時折、僕は考える。
ここから聞こえる波の音は、あの日あの時に阿藤さんが聞いた波音そのままなのだろうか。それとも、そこから随分と過ぎ去ってしまったその後の物なのだろうか。
そんなこと、考えたってどうしようもないのに。
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