【SAMPLE】
彼女が飼い始めたのだという黒い犬の話は、彼女を知るものはみな、誰もが聞かされていたことだった。
「とてもいい子なのよ。とってもやさしくって大人しくって、いつでも私の気持ちに一番に寄り添ってくれるの。ただ、とっても臆病な子でね。子どもの頃につらい思いをしていたみたいだから、そのせいなのかしら。身体にもその頃の傷がたくさんあるの──見てるだけで痛ましくって。でも、あの子がいま生きていることがなによりもの宝物だと思うの。だからそれも全部愛してあげられたらと思うわ。本当に綺麗な子なのよ。しっとりした艶のある黒い毛並みに、琥珀みたいに澄んだ深い色の瞳がきらきらしていて。ほんとうに、ひとめ見た瞬間に吸い込まれるような心地になったわ。あんなに安らかな気持ちにさせてくれる相手に出会えたのははじめてよ」
うっとりとまぶたを細めながら告げられるくちぶりはまるで、幼い恋におぼれる少女のようにも、最愛の我が子を胸に抱いた母親のようにも見えたのだと、彼女を知る人たちはみな、口々に語る。
最愛の『犬』との出会いから数年の後、心と身体を蝕む病に冒されていた彼女はある日唐突に、命を落とすことになる。
莫大な資産と数多くの解明されないままの疑惑を抱えたまま彼女が黄泉の国へと旅立ったその後、取り残された黒い犬がどんな風に過ごしたのかを知るものは誰もいない。
蜂蜜を煮詰めたようにとろりと甘く、深く澄んだ金茶色の瞳が、ひどく遠慮がちにちらちらとこちらを捉える。
無理もないことだ。突如見知らぬ場所へと連れてこられたあげくに、きょうからはここがあたらしいすみかだなんてことを半ば強引に決められたのだから。
滑らかな白い肌、ゆるやかに波打つ黒い髪、すべらかな骨格。洗い晒しの清潔な濃紺のシャツに、サスペンダーのついた細身のチノパンツ──清潔感を感じさせるごくシンプルなよそおいに、首もとにはあざやかなオレンジのスカーフが華を添える。
伝え聞いた年齢よりもどこか幼く、あやうく見えるのはすこしばかり特異なその出自も少なからず関わってはいるのだろうか。
こほん、とわざとらしく咳払いをこぼし、私は尋ねる。
「楽に座ってくださいね」
所在なさげなようすで、ひどく遠慮がちにソファに浅く腰をおろす姿を前にそう声をかける。ゆれるまなざしはほんのひとときだけこちらを注意深く見つめると、すぐさま、ぎこちなく逸らされてしまう。
──仕方がない、こればっかりは。
彫像のようになめらかな指先へと視線を落とすようにしながら、遠慮がちに言葉を投げかける。
「あまり堅くならないで──とは言われても、無理がありますよね。でも、これだけは信じてください。私は心からあなたのことを歓迎しています。もちろん、いつでもここを出て行っても構いません。私は最初からそのつもりでいますので、どうか気兼ねはしないでください。それまでの間だけでも構いません、どうかここで自由な時間を過ごしてください」
「構いませんか、ほんとうに」
消え入りそうな弱々しい声で告げられる言葉を前に、にっこりと笑いかけながら私は答える。
「行く宛のない魂を救うことは、教会の大切な役割です」
ぎこちなく怯えていたかのように見えたまなざしに、かすかな安堵の色が灯る。
「……なにか出来ることはありますか。お手伝いだとか」
「よければ私の仕事を手伝っていただけますか。してほしいことがあればいちからお教えします。わからないことがあれば何でも遠慮せずに聞いてください。それともなにか、してみたいことはありますか?」
「わからない、です」
気弱な声に滲む想いに、胸の奥が鈍く痛む。
「ゆっくり考えましょう、時間ならたっぷりあります」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて丁寧に答えてくれる姿に、ひきつれた胸の奥で疼く痛みは募る。
ほんとうに、いままでに出会ってきた同じような境遇を生きていた人物とはまるで違う。それがもし、自らを守ってくれた相手にどれほどまでに愛されてきたのか、どれだけ一身に彼らを愛し、愛されようと努力を重ねてきた証なのだとしたら──身勝手な空想が導き出した可能性を前に、気づかれないようにとかすかなため息を落とす。
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