【SAMPLE】
この世にあふれるすべてのもの、それぞれにひとつだけの「名前」があることをはじめて知った時の驚きは、いったいどんなものだったのだろう。
思い出すことなんてきっと出来ない。だからこそ、こんなふうにあてどなく想いを馳せてみるそんな瞬間がある。
「あ、撫子だ」
歩道の脇に咲いた花は濃いピンクと紫を混ぜたような明るい色で、うんと細かなフリル模様を刻みながらひらひらと頼りなく風に舞う。線香花火の火花ってこんなふうに見えたよな、たしか。
「撫でたいくらいかわいいから撫子って名前なんだって、なんかかわいいよね」
慈しむようにうっとりとまぶたを細めて話す横顔をぼうっと眺めながら、思わず気付かれないようにちいさく息を吐く。なんでこんなに見飽きないんだろうな、不思議だ。この花の名前をつけた誰かもしかすれば、こんなふうに大切な誰かを思いながら、ちいさな花を愛でていたのかもしれない。
「こっちの白いのは?」
あざやかな色を引き立てるように咲く、ごくちいさな白い花がこんもりと花束のように生茂る姿を指差してみる。
「スイートアリッサム」
すぐさま、得意げな笑顔を貼り付けたまま返事が投げかけられる。
「……歩く花図鑑だな」
「そんな詳しくないよ、たまたま知ってただけ」
誇らしげなようすを隠せない笑顔に、心はおだやかに温められる。
「いい季節だよね、春って。どこもかしこもなんかきらきらしてて」
「ほんとにな」
分厚いコートやブーツから解放された身体は身軽で、どこまでも軽やかに歩いていけるような気がする。突き刺すように冷たかった風だって、もうすっかり頬を撫でるようにやわらかで心地よい。
「あれってミモザであってる?」
針のような葉っぱとぽんぽんとまあるい黄色のかわいらしい花を指せば、満足げな笑顔がそうっと返される。
「ギンヨウアカシアだよ。ミモザって言う人の方が最近は多いよね」
「ゼラニウム」
「カタバミ」
「スノーフレーク」
「ツツジ」
「モッコウバラ」
「チューリップ」
「シャクナゲ」
ごくありふれた住宅街にも、驚くほどに花は溢れている。そのひとつひとつに誰かが授けた名前があるだなんてことをいまさらのように不思議に思う。
気にも留めずに通り過ぎていたそれの「名前」を知るたびに、なぜだか視界が明るく開けていくのだから不思議だ。
「よく知ってんな、それにしても」
「そっかなあ?」
ゆったりとしたパーカーの袖口をそっとさするようにしながら、忍は答える。
「ふつうにおぼえない?」
「いや……」
歴史上の人物だとか星の名前なんかと違って、テストに出るからとおぼえたような記憶もないことだし。
そういえば、花の名前っていくつそらで呼べるんだろう? 名前がわかったって、実物と結びつけるのが難しいものがきっとやまほどあるはずだ。思わず首を傾げるこちらを前に、いつもそうするみたいににっこりと得意げに笑いながら忍は答える。
「ちっちゃい頃さー、よく家族で散歩とかって行くじゃん。そゆ時に教えてくれたんだよね、佳乃ちゃんが」
おおよそ『母親』を呼ぶのには似つかわしくないと思うようなお馴染みの呼称とともに、嬉しそうにまぶたを細めながら忍は答える。
「佳乃ちゃんのお父さんーーうちのおじいちゃんがね、花が好きだからってちっちゃい頃によく散歩しながら教えてくれたんだって。だからさ、佳乃ちゃんも子どもが出来たら教えてあげんだーってずうっと思ってたんだって。そんでね、俺とひろちゃんにいっつも教えてくれたの」
春の日差しに照らされながらうっとりと語る横顔に、わずかにいつもとは違う影が過ぎる。
この表情を、確かに知っていた。自分と出会うよりもずっと前ーー一生手に入るはずもない、周のことをすこしも知らなかった頃の忍の顔だ。
「言われたんだよね、いつかその時がきたら誰かに教えてあげてねって。わかんなかったんだけどさ、子どもだから。でもいまんなってやっとわかった、そゆことなんだよね、きっと」
照れたように笑いながら、瞳の中には色とりどりの花が映し出される。
「名前がわかるとさ、なんかいいなぁって思うよね。愛着が湧くって言うか」
「……まぁ、」
少なくとも、偶然目にした『どこかのなにか』ではなくなる。
「なんかうれしくなる、単純だなぁって思うけど」
「うん、」
どことなく無防備に放たれる言葉の端々からは、素直な歓びの思いだけがひたひたと染み渡る。
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