樹はドアを開けて外に出た。そして少し伸びをした。
ドアの向こうには雑然とした景色。
雑居ビルの裏側というのは、実に夢がない。
ドアが開いた途端に現実に逆戻りする。
細い通路の向こうで輝くネオンの光が見せる眩しい世界の欠片。
それはまるで虚構のようにギラギラと自己を主張していた。
世の中とかけ離れた、ゆったりした時間の流れから一気に現実を見る感覚にはなるのだが、時々はそういうこともきっと必要なのだ。
そして、そろそろ店に戻ろうかとしたその時。
「うう……」
樹は、はたと動きを止めた。どこからかうめき声のようなものが聞こえた気がする。
彼は辺りをきょろきょろ見渡してみた。
「しんどいよぉ……」
やはり誰かいる。若い女性の声のようだ。
声のする方に歩いてみると、少しずれた位置にある真っ暗な通路に一人の女性がしゃがみ込んでいる。
その女性は、両手を口に当てながらかなり苦しそうにしている。
「おい、大丈夫か?」
樹は女性の横に駆け寄り、同じように彼女の隣にしゃがみ込んで顔を覗いた。
近づいた女性からはほんのりと酒の匂いがしている。
「気分が悪くて……吐きそう……!」
「えぇっ?」
言うが早いか、女性は樹の胸を掴んで寄り掛かった。
勢いに押されてしりもちをついた状態の樹の胸の中で胃の中のモノを逆戻りさせた。
一瞬の出来事に、樹の頭の中は真っ白になった。
職業柄、酔っ払いは何人も相手をしてきた。
だが、抱き付かれたまま直接吐かれたのは初めてである。
「あ、ありえない……!」
彼の着用している制服のベストに女性が出したモノがべったりとくっ付いている。
「ううう……」
樹は頭を抱えた。とりあえず、この場所から移動させなければならない。
彼女の背中を支えつつ、手を徐々に下にずらしていき、樹はお姫様抱っこの状態で女性を運んだ。
店の裏口からスタッフルームに入り、ソファーにそっと彼女を寝かせた。
女性は相変わらず苦しそうな表情はしていたが、吐いたことと横になれたこととで少し和らいだのか、先ほどよりは穏やかな状態になっていた。
「君、どこから来たんだ?」
樹は彼女に話しかけてみた。
だが返事が無い。
これでは家族に連絡をして迎えに来てもらうことも出来ない。
彼女が身体をくねらせたとき、掛けていたショルダーの口が開いて中のものが零れ出た。
ハンカチ、ティッシュに加えてパスケース。
拾い上げた樹はそれを手に取り、驚いた。
(これ、白馬女子学園の学生証じゃないか?ということはまだ高校生かよ!?)
未成年のクセに酒を飲んで気持ち悪くなっている女の子。あまり哀れに思えなくなってきた。
そうは思いつつも苦しそうにしているのを見るとやはり放っておくわけにはいかない。
水でも飲ませてやりたいのだが、飲料水はバー店内にしか置いていない。
汚れた制服のまま、他のスタッフや客に見つからないように取りに行くのは至難の業だ。
樹は頭を悩ませたが、よく考えてみると水の置いてある場所は運良くスタッフルームからもほど近い場所にある。
樹は忍び足で飲料水のある場所まで行ってみることにした。
ドアの隙間から覗くと、水の入ったピッチャーが視界に入った。
樹はそっと手を伸ばし、ピッチャーとグラスを掴んでスタッフルームの方へと勢いよく走った。
部屋に戻ると先ほどの女の子が相変わらずソファーに寝ているのが見える。
樹は彼女に近づき、身体を少し抱き起してグラスに注いだ水をそっと飲ませてやった。
あまり長居しているとまた誰かに見つかる可能性がある。
彼は服を着替えた後、ポケットからスマホを取り出してどこかに電話をかけ、彼女を抱きかかえて裏口から出ていった。
「ただいま~!」
『おかえり、お兄ちゃん!』
いつもなら、ドアを開けた瞬間、決まって妹が出迎えてくれる。
職場の飲み会から帰って来た光弘の予定では、今夜もいつもと同じように汐里の笑顔が玄関にある予定だった。
だが、違った。
「あれ?おかしいな。誰もいないのか?」
家の中は、玄関の灯りはついているが物音ひとつしない。
いくら名前を呼んでも返事がない。
光弘は焦り始めた。
こうなったら直接妹に電話を掛ければ良いのだ。
スーツの胸ポケットからスマホを取り出し、『汐里』と書かれた項目をタップする。
数秒のうちに呼び出し音が鳴り始めた。
いつもならもうとっくに応答しているだろうに。
すると、そこでようやく呼び出し音が止まった。
「あっ!汐里!汐里か?今どこにいるんだ汐里?心配したんだぞおおお!」
相手が名乗り出る前に、光弘は勢い任せで一気にまくし立てた。
まるでこの世の終わりに一筋の希望の光が射しこんだかのような喜び具合である。
『あ、汐里さんのお兄さんですか?良かった。今、妹さんをお家まで送ってまして、もうちょっとで着きますので……』
光弘はピタリと固まった。
電話に出たのは汐里ではない。男の声だ。
外で車が停まった音が聞こえたので、光弘は勢いよく玄関の戸を開けた。
「汐里いいぃぃぃっ!!」
大声で外へ飛び出してみると、車から若い男が汐里を抱えて降りてきた。
(なんか、ふわふわしてる……いい香りだぁ……)
汐里は眠っているようではあったが、何となく微笑んでいた。
「あの、さっきの電話のお兄さんですか?」
背の高い細身の若い男がこちらに向かって話しかけてくる。
見たところチャラチャラした感じのヤツだ。
こんな男がどうして大事な妹を抱きかかえて送ってくるのだろうか。
「妹さん、体調が悪いみたいで、それで僕……」
「汐里いいいいいっ!」
樹が言い終わらないうちに、兄が妹めがけて勢いよく走ってきたため、樹は思いっきり突き飛ばされてしまった。
道にへたり込み、あまりのことにビックリして目を白黒させていると、突然彼女の兄に詰め寄られた。
「お前誰だよ」
首根っこを掴まれることなどそうそうないだろう。
ギロリと睨みつけられ、今にも殴り掛かってきそうな勢いのドスの利いた声だ。
「いや、僕は妹さんの体調が悪かったから送ってきただけで……」
必死で説明しようとしたが聞き入れてもらえない。
「おおおおい、何もされてないだろうなぁー汐里いいいい!」
目の前で繰り広げられている光景を見ながらも、樹は何が起こっているのか分からなかった。
「おい!どこの誰だか知らないけどな、二度とうちの妹に手を出すんじゃないぞ!覚えとけ!」
力いっぱい睨みつけたあと、光弘は勢いよく玄関の向こうへと消えていった。
ドアの閉まる激しい音がバシーンと静かな夜に響き渡り、樹の心には強い衝撃波が感じられたような気がした。
「……災難でしたね」
一部始終を見ていたタクシーの運転手がボソリと言った。
そうだ。まったくもって、災難としか言いようがない。
「そう、ですね……ははは。ありえない……」
魂が抜けたように無表情のまま答えた樹は、しばらくの間そこに立ち尽くしていたが、やがてもう一度タクシーへと乗り込んだ。
ドアは力なく閉じられ、そのままゆっくりと方向転換をして遠ざかっていった。
夜は何事も無かったかのように、今夜も遠い空で佇んでいるのであった。
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