★sample★
かすかに歌が、聞こえた気がした。
掠れたどこか不安定な音程で、少し鼻にかかってくぐもっている。ララバイと呼ぶにはおぼつかず、きっと誰かに聞かせる為などではなく、ただ自分の為だけに、無意識の内に口ずさまれた物なのだろう。
まどろみかけた意識の内側にそっと語りかけてくるかのようなその歌声には、不思議な穏やかさが満ちていた。
「なぁお前さ、歌、うたってたじゃん」
「・・・・・・聞いてたんですか?」
尋ねたその途端、酷く気まずそうにイリーナは答える。全く、何を今更そんなに恥ずかしがることなどあるのだろうか。
「ああ、やっぱそっか。テレビとかラジオから流れてるのにしちゃあ下手くそだったからな」
「下手な歌なんてお聞かせして大変失礼いたしました。もう先輩の前では二度と唄いませんのでどうぞご安心を」
「んなこと言ってねえだろ。何、イジけてんの?」
答えながら柔らかな髪へとそっと手を伸ばすと、わずかに顔を赤らめたまま、どこか拗ねたような表情できゅっと唇を結ぶ。まったく、こんなところはいつまで経ってもそこいらの子どもとちっとも変わらない。
「下手って言ったのは先輩じゃないですか、さぞかし耳障りだったんでしょうね」
「そこまで言ってねえだろ。ったく、いいからいいから」
くしゃくしゃ、と指の間をすり抜ける金糸をかき乱しながら俺は答える。いつもならいやがる一連のその仕草を、まんざらでもなさそうに受け流すその表情がなんだかおかしくって、笑いをこらえるのにも必死だ。
ゆっくりと手を止め、形の良いその頭をそっと撫でるようにしながら、俺は尋ねる。
「お前のあの歌さ。なんか、どっかで聞いたことある気がすんだけど・・・・・・あれさ、なんて曲だっけ」
どこか憮然とした表情を張り付けながら、イリーナは答える。
「・・・・・・先輩がそんなこと聞いて、どうするんですか」
「なんていうかまぁ、好奇心?」
気まぐれ、と言った方がこの場合は正しいのかもしれないが、そんな事はこの場では本当はどうだっていいのだ。
「まぁ、いいですけど・・・・・・約束出来ますか、笑わないって」
「何で笑うわけ」
「話したらわかります。でも、笑わないでくださいよ。笑ったらその時点で話すの、止めますから」
イヤに真面目な顔で話すその様子にもう早笑い出しそうになるのを必死に抑えながら、ほっそりとしたその手首をそっと握りしめる。ほのかにあたたかいその感触と共に、うっすらとその下を流れる鼓動が指先を通じて伝わってくるのを感じる。生きているが持つ、固有のぬくもりだ。
「勿体付けなくていいじゃん、な」
「・・・・・・」
揺れるアンバーの瞳を見つめながらそう尋ねると、かすかにそっと小首を揺らした後、ささやくような穏やかなその口ぶりで、イリーナは語り始める。
「あの曲は、父が好きだった曲なんです」