★sample★
「イリーナ」
機械的にただ、そう名前を読み上げて見せる。
「はい」
途端に返ってくる律儀なその返事を前に、思わず苦笑いでも漏らしたくなるのをぐっと抑える。
「いや、いい名前だなって思って」
「……なんなんですか一体、いきなり」
ぶつくさと文句をいいながら、その表情が歪む。それでも、いびつなその奥に、隠しきれない微かなぬくもりが潜んでいることを、モニターに映し出された不鮮明なその姿でも如実に受け止めることが出来る。
イリーナ
とりわけ意識をしたことは無いけれど、相応しい、美しい名前のように、今なら素直にそう思えた。
きっと幾度と無く愛おしむようにその名を呼ばれ、生まれてきたそのことを祝福されてきたのだろう。
何の違和感も無くその名前や生まれた落ちた日を記すことが出来るのも、こんな風にくるくると表情を変えて、感情の赴くままに振る舞えるのも―きっと、自らの生が望まれて生まれてきた物だと疑う余地などなかったそのはずだからだと、そう決めつけてしまうのはただのやっかみに過ぎないのかもしれないけれど。
「いいからどいてくれませんか。仕事、まだ残ってるんで」
野良犬でもあしらうかのような無遠慮なその態度を前に、窮屈に折り曲げた背をゆっくりと伸ばしながらその場を立ち上がる。それならば、仰せのままに。定位置に戻ろうと進路を取ったところで、背中越しにぴしゃりと、あのお小言が被さる。
「先輩の席はそっちじゃないですよね! まだ期限間近のデータ作成が大量に残ってるの、まさか忘れたなんて言わせませんよ?」
「ハイハイハイっ、と」
「ハイは一回!」
いいからさ、そのヒステリーババアみたいな小言どうにかなんねえの? このタイミングでツォンさんが帰ってきたらどうせいつものあのうわずったぶりっこ猫撫で声に戻んだろ? 声帯の無駄遣いだろうからどっちかに統一したらいいんじゃねえの?
相変わらず脳内では売り言葉に買い言葉のオンパレードが繰り広げられるが、こちらの声帯の無駄遣いになるだけなのはわかりきっているので勿論わざわざ口には出さない。いつものように渋々と席について、スリープの状態の端末を立ち上げれば、暗転したままだった画面は一転して何百行と続く未処理のデータフォーマットに移り変わる。
ああ、そういえばそうこうしてるうちに、いつの間にか古傷のように疼いた、帰らないあのつかの間の日々への感傷が追いやられている。
取り戻せない過去に縋ったって、行き場をより失うだけだ。計らずとも気を紛らわせてくれた口うるさい後輩に少しでも感謝の意を表明してやるべきなのだろうか。
端末と書類の山のその隙間からせめて顔色だけでも伺ってやろうかなどと思うが、僅かな隙間から顔を覗かせるのは俯いたままさらさらと揺れるいかにもやわらかそうな金の髪くらいで、その下に覆い隠された表情の色までが読みとれるわけもない。
……そういえば、この後輩の誕生日は正確にはいつだったろう。覚えておいてやれば、もしかしたら祝ってやれたかもしれないのに。(ただし、その時まで生きていれば、の話)